フィリピン紹介
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歴史


フィリピンには中国大陸やマレー諸島などからマレー人、ネグリトやモンゴロイドなどさまざまな民族が移住しフィリピン文化が形成されていきました。民族多様化の中で、中東、インド、中国からの影響が経済や社会生活に大きな変化をもたらし、それによる産業の起こりや通貨流通の導入などが進みました。フィリピンは後に欧州やアジアをなどをつなぐ文明文化の交流地となって行きます。12世紀までスマトラ島を拠点とするスリウィジャヤ王国の影響をうけ、13世紀になるとイスラム教が諸島南部に浸透。15世紀には中国の明朝と交流がおこなわれていました。

フィリピンの首都マニラは、1565年、スペインより派遣された遠征隊司令官ミゲル・レガスピが71年に統治の中心として建設したといわれます。その頃同時に行われていたキリスト教宣教師の布教活動はスペインの支配力を強めるのに重要な役目をはたし、結果としてフィリピン人はイスラム系の諸島(スールー諸島等)を除き共通の宗教によってまとめられる事となりました。
今でも国民の多くはキリスト教徒で、結婚式には教会で婚姻届を出すなどの習慣が根付いています。
そしてこの先、1603年に華人の反乱、1762年には欧州で起こった七年戦争でイギリス軍がマニラを占拠するなど19世紀までスペイン、中国、イギリス、オランダなどの大国のいさかいに巻き込まれていってしまうのでした。

19世紀末から革命の波が起こり、欧州へ留学していたホセ・リサールがフィリピンに帰国、「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン民族同盟)」を結成、後にアンドレス・ボニファシオらによって「秘密結社カティプナン」が結成されます。1897年12月にビアックナバト和約が成立するも運動は続き、1899年1月、アメリカの支援を受けエミリオ・アギナルドを中心としてフィリピン第一共和国が建国されました。しかしその後起こった、フィリピン・アメリカ戦争によってアメリカ合衆国の植民地となってしまいます。

近代第二次世界大戦(WW2)においてのフィリピン

1941年から1945年の間、フィリピンはその立地故に日本−アメリカ間の戦場となってしまいます。その間にフィリピンは日本派の「ラウレル政権・独立派のマカピリ」とアメリカ派の「フク団、ゲリラ部隊そして世論」とに別れ戦います。

戦いに勝利したアメリカ軍は米自治領政府(独立準備政府)コモンウェルス政府を復活させます。その後味方であったフク団などのゲリラ部隊を武装解除させ幹部を逮捕するなどし、フィリピンの兵士らに強い反感を抱かせてしまいます。これはアメリカ側が利権を得るためと、フク団などの共産主義的な思想を恐れたためといわれます。アメリカに弾圧を受け続けたフク団はアメリカと敵対関係になり、国の中で二つに別れ内戦が続きました。

1948年から1950年代にかけて内戦は続き、後にフィリピンはアメリカ主導の下で親米国家となります。戦後の混乱期にはマルコス政権の独裁政治が起こり、その最中でのニノイ・アキノ暗殺事件(1983年)、1989年亡命先のハワイでマルコス死去。それによる軍の反乱勃発。
1990年ルソン島北部バギオで大地震が発生、翌1991年ピナトゥボ火山噴火など天災にもみまわれるなど、多くの騒乱を経験した後、現在に至っています。因みにこの火山噴火でフィリピンがアメリカ軍に提供していた土地が使えなくなり、比撤退と共に沖縄へと引越しする形となったのでした。

日本とフィリピンその後
日本軍のフィリピン上陸は元々搾取の対象ではなかったとの資料が残されています。
戦後フィリピン政府は1951年9月に日本とのサンフランシスコ講和条約に署名しますが、翌52年初めにフィリピンが戦時賠償として80億ドルを要求すると対話はとだえてしまい、賠償問題は56年にまで続きました。二国間協議にて日−比へ払われた額は1900億円ほど(5億5000万ドル(当時の円換算)。


大国に翻弄され続けたフィリピンですが、日本ともその後国交が回復され、国内の問題を抱えつつも、リゾート地として日本だけでなく世界の人々の心身を癒す旅行地として出迎えてくれています。


島の文化

スペイン統治の時代、船の交流が盛んになり様々な文化や芸術、品物などが島に集まりました。世界文化遺産としてその街並みも残されています。フィリピンにはスペインやアメリカ統治時代の影響が色濃く出ており、言語、食事、生活、宗教などアジアというよりは欧米に連想される事柄が多いのも特徴と言えます。

諸島ということもあって、フィリピンの島々には個性的な暮らしを営む民族も存在します。旅行などで触れ合う機会はあまり無いかもしれませんが、培われた文化は民芸品という形で触れ合える場所にあります。それらを手に取り鑑賞する事で、よりフィリピンを知ることもでき、お勧めします。是非お立ち寄りください。



世界遺産

フィリピンには世界に誇る世界遺産が存在しています。文化遺産に登録された『バロック様式の教会群』、『コルディレラの棚田』、『ビガンの歴史地区』。自然遺産に『トゥバタハ岩礁海洋公園』、『プエルト・プリンセサ地下河川国立公園』が登録されています。どれも美しく、すばらしい世界を見せてくれます。

→観光・ガイド



日本とのかかわり

フィリピンに対する日本のODA
ODAとは、『政府開発援助(Official Development Assistance, )の略称です。日本は終戦後最貧国にランクされたこともあり、その際にODAを受けたことがあります。アメリカの「占領地域救済政府資金」 (GARIOA) と「占領地域経済復興資金」 (EROA)からの援助は 、東海道新幹線、東名高速道路、黒部川第四発電所などの建設、インフラ整備にあてられました。他にもカナダ、南米からも食料や生活品を受けました。その経験を元に、現在日本も多くの発展途上国にODAを行っています。戦時賠償的な意味合いも含まれていたと言われます。

日本からのODA支援国の中にはフィリピンも含まれており、日本国とアジア銀行から多額の資金援助と技術支援、有償、無償支援が行われています。その援助は学校の建設や人材育成、水質の管理、農地の改革整備、鉄道、火山災害の援助などに当てられ、すくなからずの成果を挙げているようです。ですが現実問題として、現場で働く人とは別にその支援金を本来の目的から離れた意図に使われるケースも後を絶たず、日本−フィリピン間の一つの問題になっています。
そして、日本や他国からの支援を知る人もいれば知らない人も居ます。
しかし、ひたむきに自国の発展を願う国民の前向きな努力もまた絶えることはなく、豊かさをを目指して国の発展に尽力しています。そんな彼らの現状に見合った、必要で的確な援助、支援が出来れば、両国はまた一歩、近づけるかもしれません。


フィリピンの鉄道
実はフィリピンでは、日本製の新型車両が走っています。2006年12月は日比国交正常化50周年記念。
その記念として、日本はフィリピンへ新型車両を送りました。そのときの贈呈式ではフィリピンと日本の首相も参加しています。車両にはエアコンが付けられ、常夏のフィリピンにあって快適な移動手段の一つとなっています。

この車両の走る路線は、フィリピン・マニラの観光スポットの多くを網羅しているので観光にも役立ちます。
値段はそれぞれの路線別換算で、距離により2段階にかわります。
高いほうで日本円で40円程度(15ペソ)。フィリピン市民からすると少し値が張りますが、移動時間の短縮や快適さから今ではフィリピンの足として多くの人に利用されています。









政治

1800年代末まで、スペインのキリスト教布教、領土の支配によるフィリピンの抵抗は続きますが、スペイン=アメリカ間に起こった戦争など混乱は続き、スペインがアメリカに諸島を売ってしまう(1898年パリ条約)などしてアメリカ支配が強まります。(米が比を支援し西と戦わせた後、弱った西から比の植民地権を米が買い取った、ともとられます)アメリカの支援を受けて独立を勝ち取ったと信じていたフィリピンはこの事実を知り激怒。フィリピン・アメリカ戦争へと突入してしまいます。その後反乱を鎮圧したアメリカによる文民統治が開始され、のちにアメリカ大統領となるウィリアム・ハワード・タフトが初代民政長官に就任しました。

1898年、スペインに勝利したアメリカは『パリ講和条約』の元、フィリピンを領有。
1899年1月、エミリオ・アギナルドを中心としてフィリピン第一共和国が建国。
同年2月、フィリピン・アメリカ戦争勃発。
1901年、民政府発足、タフト初代総督。
1909年、ウィリアム・ハワード・タフトが第27代アメリカ大統領に就任。
1913年、米民主党政権によるハリソン総督就任、自治化を推進。
1915年、スルー王国と協定、米の支配下に。
1916年、ジョーンズ法(自治法)成立、アメリカはフィリピンの将来の独立を約束。
1931年、パンガシナンで反米の反乱。
1933年、フランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任。
1934年、米議会フィリピン独立法(タイディングス・マクダフィー法)成立。
1941年1月、第二次世界大戦中、フィリピン国土において米軍と日本軍が激突。
1942年、日本軍政下におかれる。
1943年、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が建国され、日本は同盟条約を締結、事実上の軍政終了
1945年2月、米軍が首都マニラを奪還、事実上の勝利宣言。同年ラウレルは亡命先の日本で第二共和国を解散。
1946年7月4日、フィリピン共和国の独立が正式に宣言されますが、ロハスを大統領とする新しい国家は経済復興問題にくわえて国内の抗争に直面。対米従属政策が独立後フィリピンの政治の基調となっていきます。
同年のフィリピン通商法で、アメリカ市民にもフィリピン人と同等の経済的権利があたえられるようになり、
1947年3月国民投票によって憲法が改正され、
1951年にはアメリカと相互防衛条約を締結。しかしその後もベトナム戦争、マルコス体制など情勢不安が続き、政治、治安ともに暗い影を落としてしまいます。

2001−2010年の任期終了に伴い、グロリア・アロヨ前大統領から2010年よりベニグノ・アキノ三世大統領へと政権が移行されました。



現在のフィリピン共和国

現在フィリピンは近代化が進むと同時に観光にも力を入れており、旅行者にとって至福のひと時を過ごせる場所になりつつあるようです。一方国民の暮らしといえば一部の富裕層を除き、全体的な生産率は決して高いとはいえません。
国として政府の問題も多々あり、解決への道に楽観はできませんが、それでも現在。比較的穏やかな情勢にあることは確かといえます。

フィリピンへの旅行と治安について(外務省通告ベース)
フィリピンに限らず、日本人旅行者は旅先で狙われることがあります。海外では「日本人はお人よし・弱い・お金持ち」のイメージがあるからだと思われ、対策が進められてきました。現地の治安が良くなることが第一ですが、旅行者の現地での振る舞いを見直すのも、現地と旅行者双方の安全と信頼を得る一つの策になります。
覚えておくことは、『日本とフィリピンでは生活水準も貨幣価値も違う』こと。事件の多くが金銭に絡むことであり、刃物や銃、生活苦、事件といったものが日本よりいっそう身近にあるものだという認識を持つことです。

フィリピンで起こる事件のうち、日本人が巻き込まれてしまうケース。
・無防備なお金の勘定
日本と同じ感覚で財布を出したり、お札を見せたりすることは『お金持ち』アピールになってしまうので控えてください。
・現地の人や、同行者に対して大声を張る・ののしる・辱める言動や行動をとる。高圧的な態度をとる。
暴力的で下品な人間だと思われ、場合によっては事件に発展しかねないので注意が必要です。
・挙動不審な態度
変わった人、怖い人などの認識はどの国でも一緒です。常識に欠ける行動、不実な態度は嫌われます。
・人気の無い場所、スラム街には近寄らない
日本を含め万国共通の注意事項。どこの国にも良い人悪い人はいます。

大事なことは、『現地の人間に敵意を持たれないこと』『派手で粗暴な行動は控えること』。旅の恥はかき捨て、といわれますが、何をしても許されることではありません。フィリピンなど、アジアの有名なリゾート地には日本語の分かる方もいらっしゃいますので「障子に耳あり壁に目あり」を心に留めておくことも重要です。

現地の治安は旅行者によっても左右されます。ちょっとの気遣いと自衛の心構えを頭の片隅に留めていてください。安心安全に楽しくフィリピンを旅していただければ、と思います。



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